暇と退屈の倫理学
著者:國分 功一郎
出版社:新潮文庫(2021/12/23)
形式:文庫本(¥990)、Kindle(¥792)
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本
本書は哲学者の國分 功一郎さんによる著書になります。日常の中でふと感じることがある「暇」と「退屈」とは一体何なのか、その本質を探る思考の旅へ出る一冊。
僕はよく、「今日は予定が何もなく、暇になってしまった」「この時間、退屈だな。早く終わらないかな…」と思うことがあります。
普段あまり「暇」と「退屈」の違いなど意識することがなく、ただなんとなく「やることがない」「つまらない」のような状態を表す、個人的には割りとネガティブなイメージの言葉として思い浮かべる言葉です。
つまり、できれば巡り合いたくないワードが2つも入っている本書のタイトルは、読み始めることがやや億劫になってしまう印象がありました。
そのため、著者のことはPLANETSを通して興味を持っており本書のことも数年前とかなり以前から知っていたものの、今年の6月に至るまで読まずに積んだ状態となっていたのでした。
それでも本書は不思議な魅力があるのか、ふらっと書店に入るとそのタイトルが目に入ってくることもしばしばあり、ずっと頭の片隅で存在感を放っていました。
また、年々自分の時間の使い方について興味関心が強くなっていたこともあり、「暇」と「退屈」への理解を深めることで時間の過ごし方にも変化が現れるのでは?とやや邪な気持ちでようやく本書に取り掛かった次第です。
ここまで散々と失礼なことを言いながら、読んでみたらなんとページを捲る指が止まらない!面白い!
気がついたらあっという間に読み切っていたのでした。
本書は「暇」と「退屈」について、序章から始まり第一章〜第七章、そして結論へと論考が展開されていきます。
序章にもある通り、各章の位置付けは以下のようになっています。
そもそも、「暇」と「退屈」の違いはなんなのだろう。
「暇だな」と「退屈だな」を似たような意味合いで使っていた自分にとって、本書を読み始めるときはそこからでした。
本書では「暇」を「自分が自由にできる裕福な時間」、「退屈」は「興奮のない、楽しくない感情」という意味合いで捉えています。
この2つを明確に別のものとして考えると、必ずしも「暇」と「退屈」は関連しているとは言えないことも分かってきます。
例えば、週末に楽しい予定が入っているときの、仕事終わりに電車を待っている時間。
この時は電車が来るまでは暇ではありますが、もし何もしていなかったとしても楽しい予定のことを考えていたら退屈はしていなかもしれません。
続いて暇がなく退屈だけを感じているときの例としては、やらなければならないこと(家事、仕事など)をしているときは手を動かさなければならないので暇ではありませんが、気持ちとしては退屈を感じているかもしれません。
(自分の場合、次の日が燃えるゴミの日だったりすると夜のうちにゴミをまとめておくのですが、部屋のゴミをまとめる作業をしているときがこの感情かもしれません)
暇と退屈の意味合いが明確に分たれることで、暇な時間というのは自分にとってとても貴重な時間であることに気づきました。
そして同時に浮き彫りになったのは、自分が「楽しくない」と思っていた感情は退屈によってもたらされている、ということでした。
では退屈とは何なのか、退屈を減らすことはできるか、その課題について考えるべく本書は進んでいきます。
退屈とは何か。
本書では退屈を次の三つの形式に分けて考えていきます。
第一形式の退屈は「電車が来るまでの時間」のように、自分以外の何かによって発生する退屈のこと。
続く第二形式の退屈は、友達と会ったり、出かけたり、映画をみたり、本を読んだりなど、自分からそのことをしているにも関わらず、何となく発生する退屈のことを指します。
第三形式の退屈は何をしていてもずっとそこに佇んでいる、退屈。
つまり、第一形式から第三形式に向かって、退屈は深くなっていきます。
どういうことかというと、第一形式の退屈は電車が来れば消滅します。
第二形式の退屈は過ごす中で「楽しい時間」と「退屈」がランダムに来るような、ちょっとぼんやりとしている退屈です。
第二形式の退屈はどうしたら退屈な状態でなくなるかが第一形式の退屈よりも明確ではないため、より深い退屈と考えます。
第三形式の退屈はさらに深く、もはやどうにもできない退屈です。
自分の場合で考えてみると、ふとした時に、何をするにも気が進まないときがあります。
(ただそうなってしまう感じ)
それが自分にとっての第三形式の退屈ではないかと感じました。
以上のように退屈を三つの形式に分けてみると、第二形式が多くの場合を占めることにも気が付きます。
すると退屈を取り除くことは難しそうですが、第二形式にいる時間を増やそうとしたり、自分にとって興奮できること(本書では退屈の反対の意味が「興奮できること」となっています)を探すことが、より充実感を得られる生き方に繋がるのではないか、と続いていきます。
今まで縁が遠いと思っていた哲学が、こんなにも読みやすいなんて。
そして自分が日々抱いていた「退屈」の輪郭が徐々に見えてくる感覚は、とても痛快でもありました。
自分が今まで感じてきた「退屈」がなんだったのか。
その輪郭が浮かび上がってくることで、自分の時間の過ごし方を考える手がかりが掴めたように思います。
今こうして本書について文章を書いている瞬間も、おそらく第二形式の退屈の中にいることを自覚できるようになりました。
論考を重ねていく哲学の面白さにも気がつくことができた、そんな一冊だったと思います。
多くの方に読まれている理由が分かりました。